黒田 辰秋
Tatsuaki Kuroda
1904年 京都生まれ 1971年 紫綬褒章授章
1904年 京都市祇園清井町に塗師屋の子として生まれる。 1918年 高等小学校卒業と同時に蒔絵師 瀬川嘯流に弟子入りする。 その後、現代漆芸会の分業法に疑問を抱き、一貫制作の方法を志し、まず木工による素地制作を始める。以後独学を貫く。 1920年頃 京都「三角堂」画廊にて河井寛次郎の「二彩牡丹獅子文筺」を見て感動。 雑誌掲載の富本憲吉の著作を読み、自己の制作への信念を強める。(その著作は後に『窯辺雑記』として刊行) 1924年 大阪美術倶楽部において河井寛次郎の講演を聴き、内容の新鮮さに 驚く。 同行の楠部弥弌により河井への紹介を受け、その後に柳宗悦とも交流が始まる。 1927年 柳宗悦らと社家を借り受け、上賀茂民藝協団を創立。共同作業を始める。 1930年 柳宗悦のために《拭漆楢書斎机》を制作する。 この頃、進々堂・続木斎の依頼により、百万遍の店舗用に《拭漆楡テー ブルセット》他を制作する。 1931年 今西善造の依頼で祇園石段下「鍵善良房」菓子鋪の店内装飾に着手し、《拭漆欅大飾棚》を制作する。以後《螺鈿くずきり用器》などの店内調度も手がける。木蘭社主催で芹澤銈介との作品頒布会が開かれる。 1932年 河井寛次郎との合作《莨セット》が秩父宮御買上げとなる。 1935年 志賀直哉の推薦文と後藤新太郎の斡旋により、大阪心斎橋の「中村屋」にて初めての個展を開催。この頃よりメキシコ産アワビ貝(耀貝-版画家・ 棟方志功の命名による)を本格的に手がける。 1958年 日本伝統工芸の鑑査委員となる。 1964年 映画監督黒沢明より御殿場山荘の室内セットの制作依頼を受け岐阜県付知に仕事場を設けて出張制作をする。「拭漆楢彫花文椅子」他、制作。 1968年 新宮殿「千鳥の間」「千草の間」用に「朱溜栗小椅子」30脚および卓子10脚を完成させる。 1970年 「木工」における重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。 1971年 紫綬褒章授章 1976年 『黒田辰秋 人と作品』が出版される。 志賀直哉武者小路実篤、川端康成、小林秀雄、浜田庄司らに序文を受ける。 京都市文化功労者になる。 1982年 急性肺炎のため、京都市伏見区の自宅で死去。享年77歳。